皆様のメッセージ

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「311生の会」では、2014年に皆さまからメッセージをいただきました。

【2014年3月11日に】
東日本大震災のあの日から3年の月日が経ちました。
私たち3月11日を誕生日に持つ「311生の会」は、皆様とともに、東日本大震災の被災地や被災者の方々を忘れず、関わり続け、共に歩んでいけるような活動を、細く長く続けていきたいと考えています。

ここでは、3月11日生まれに限定せず、多くの皆様からいただいた東日本大震災に関する想いをご紹介します。

<皆様のメッセージ>
・2011年3月11日あの時、何をしていてどう感じたか
・あの日を境に、変ったこと
・あの日から3年をむかえて思うこと、等

お名前お住まいの
地域
メッセージ
柴田 薫兵庫県普通の生活がどんな奇跡でどんなに幸せなことか教えていただきました。
ただただ、感謝と被災者の方が少しずつでも笑顔を取り戻せるよう心から祈ります。
冨田 涼千葉県あの震災からもうすぐ3年。 世の中では、311くらいにしか震災について触れなくなったと思います。しかし、被災地にも訪問しましたがまだまだ復興したとは思えません。 震災を風化させずに、被災地の復興に協力していくことが今の自分にできることだと思います。
河瀬 茜滋賀県自分の誕生日に大きな震災が起き、何か不思議な気持ちになるばかりです。私はまだ被災地を訪れたことはありませんが、縁と言ってはいけないかもしれませんが、この会に参加してお手伝いか何かが出来ればいいなと思いました。
会澤 唯東京都人との絆を大事にする唯だからこの日に生まれたのかもしれないね。そう友人が言ってくれた今年の誕生日。あの日「なぜ今日?」と思った。情報源が無く、翌朝見たTV中継にショックと後悔の気持ちでいっぱいになった。私は絆に生かされている。だからこそ、これからも繋いでいきたい絆があります。
中嶋 徹治東京都東日本大震災から3年が経ちました。
多くの方が亡くなり、未だ行方不明の方々ご多くいます。
3月11日生まれの僕にできることはたくさんありますが、
でも、所詮一人です。
震災があったことを風化させず、まだまだ多くの手助けが必要なことをたくさんの人に伝えていきたいと思います。
山路 シオリ東京都阪神淡路大震災を経験し311で揺れを感じ、その日が誕生日である事に私自身は何か運命を感じます。東北に魅力を感じて訪ね始めた頃に起きた震災後も、私に出来る事は旅行したり古来からある風土の文化や民藝、豊かな食べ物に興味を持ち続けて応援することです。
上野 弥生山形県震災時は仙台に住んでいましたが、土砂崩れが起きた道路も、大津波に襲われた地区も、全ては日常の行動の範囲内での出来事で、日にちと時間が違っていたら、自分達もそこにいたのかもしれないと思い眠れない日が続きました。この日に生を受けたのは、この災害を忘れないため、伝えるためなのだと思い、私にできる働きをこれからも探し続け、関わりを持ち続けたいと思っています。
佐原 琢夫埼玉県多くの犠牲を出した悲しい出来事として、しっかりと心に刻み続けます。命の有り難みを感じ、生きている者としてでき得る範囲で本当の復興に向けて協力していきたい。
青木 美砂神奈川県仕事中でした。長くて不気味な揺れ方、そしてその後知る被災の様子にとても動揺していました。自宅は一晩停電。仏壇のろうそくで誕生日を祝いました。あの日以来自分の誕生日が多くの方の命日であるという重さを感じています。周囲の人に3.11を思い出して貰える存在でありたいです。
安孫子 協東京都あの時、故郷が津波にのまれる様を携帯で茫然と見ていることしかできなかった。ようやく3週間後に帰った仙台。目の前には穏やかな春の海、だが振り返ると美しい松林は消え延々と続く信じがたい光景。あれから3年、復興はまだ始まったばかり。しっかりと見続けていきたいと思う。
加藤 容子栃木県平凡だった3月11日の誕生日が、2011年以降、自分だけの静かな一日というわけにはいかなくなりました。1年、2年と過ぎるうちに、この日に年を重ねて人生を歩む自分に、無駄に責任感を感じています。今年1年も、健康で、そして、何か意味のある活動ができればと思っています。
梶村 陽一埼玉県三年前のあの日、石原さんが都知事を辞めるのか立候補するのか今ではよく覚えていないけれど何かこの日に発表があると気にしていて、東京育ちだから大切なのはむしろ歴史上で東京大空襲のあった前日。それがあの大地震と津波と原発事故で、誕生日は決して忘れられない日になった。
蛭田 晴美神奈川県当日は自宅にいましたが、地震の最中に停電し、翌朝まで電気が戻らなかったため、ラジオだけが情報源でした。現実のこととは思えない津波の映像を見たのは翌日になってからでした。
今年は3月9日に311生の会で久之浜の献花式に行きました。震災直後から首都圏の若い方たちがたくさんボランティアに入っていたことを知りました。同時に地元の若い人が出ていってしまうという、いわきの現状も知りました。私個人は無力ですが、せめて被災地とはずっと関わりをもっていきたいと思っています。
福田 浩之神奈川県3年前の3月11日は仕事先である食品スーパーで仕事をしていました。発生と同時に停電をしてしまい余震もある可能性があるのでお客様を速やかに避難させ、翌日からは物流が混乱し商品も納品されず混乱の毎日でした。
趣味でサーフィンを1年中し海と関わって生活していますが、あの3月11日を境に海に入る前には必ず数秒でも黙祷をし、消して忘れないようにこれからも続けていきたいと思います。
新田 哲嗣東京都あの日、「生きる」ということの難しさを痛感しました。数日後、YouTubeなどで人々が世界中からコメントが集まっていると知りました。大勢の人の涙も見ました。生きねばならない。人は繋がっている。あの日と今日も繋がっている。だから私は今日も精一杯生きている。理由などいらない。
本田 哲也東京都53歳の誕生日、目黒区のtoBe塾も大揺れで大学院受験生の授業は中断。後日、東日本2011年生れの赤ちゃんが30歳(私83歳)になるまで無料ネット学習支援を続けると決意。YouTube「311バイパス無料授業」、無料電子書籍『中高生の東大英語』等を http://www.tobe-honda.jp/ に公開中です/学習塾主宰・元大学院講師
山田 佐和子東京都3月11日。私の誕生日でもある日に、大震災が発生しました。忘れてはいけない、忘れられない日です。地震発生から3ヶ月後に被災地に行き、東北の皆さんの温かさに涙を流す事が多々ありました。仕事が忙しく、なかなか行けませんが時間を見つけて又東北に行きたいです。
井出 留美埼玉県自分の誕生日に地震が発生したことで運命的なものを感じ、当時勤めていた食品企業の製品を支援物資として被災地に手配、石巻に何度も通った。行動すべきと感じ、その年に退職、独立。食料品送付や炊き出しなど支援活動を続けている。個人オフィスは「office 3.11」。
渡邉 美由希神奈川県あの時、初めて担任をしたクラスの生徒を避難させることに必死でした。今日もご飯を食べられること。お風呂に入れること。町に人がいること。自分が生きているということ。あなたが生きていてくれているということ。ちっぽけな自分だけれども、どんな小さいことにも精一杯、感謝のできる日にしたいです。感謝はきっと素敵な未来の礎になる。そう思っています。
中島 博善東京都3年が経過して、私達の心の中であの震災が他人事になっていないだろうか。3月11日の発生時刻にはオフィスの席で犠牲者の皆さんのご冥福をお祈りしながら考えてみようと思う。そして夜には、震災同年12月に被災地を歩いた記録を見ながら、一杯だけのビールで今生きていることに感謝しようと思う。明日にも我が事になるやも知れないのだから。
「ベイグランデ防災ブログ」をご覧下さい。
川島 進之介東京都山口県で働いていた私は当日、昼過ぎに事務所に出勤し、時間があったので携帯を持たずに、近くのコンビニに行きました。事務所に戻ると携帯に60件くらいのメールがきていて、何かと思ったら震災を伝えるニュース速報でした。まさか自分の誕生日にこうしたことが起きるとは思わず、衝撃を受けました。2週間後、福島に入りました。津波で大きな被害を、原発事故で見えない不安にさらされている地域を見て、愕然としたのを鮮明に覚えています。実はそれ以降被災地に行っていません。近いうちにもう一度被災地に行き現状を見たい。それが私の今の思いです。
江渕 邦彦神奈川県3年前の誕生日、日本人の絆、おもいやり、いたわりが世界中を驚かせ、感動させた。そして世界が一つにまとまり日本に深い愛情と、大きな援助の手を差し伸べてくれた。それらに報いることが出来ているのだろうか。今からずっと誕生日になると思い出すだろう。
阿蘇 敏之神奈川県3月11日私の誕生日に東日本大震災が発生しました。今まで一度も東北に行ったことがありませんでしたが、あの日を境に被災地を思い福島にも行きました。これからも東北を思い、関わりを持ち続け、応援し、私自身も勇気をもらって生きたいと思います。
井組 昭代東京都あの時は、電車がストップして会社帰りの人達は皆歩いて家路に。携帯は繋がらず唯一公衆電話から無事を知る。直後、東京が暗くなり信号で待っている国道の街路灯が暗すぎた。スーパーも営業中なのに薄暗い。何より物が不足していた。
ルダシングワ 真美ルワンダ共和国、キガリ市あの日震災のニュースをルワンダで知りました。津波の映像を見て、言葉を失いました。その後、被災し、亡くなった人の慰霊碑をルワンダに作り、ルワンダの人と共に祈り、チャリティを行いました。ルワンダでは民族対立による大虐殺が起こり、たくさんの命が失われました。彼らが被災地に寄せた思いは、実際に彼らが経験した悲しみとオーバーラップしていたように思います。遠く離れた場所ではありますが、私もルワンダからエールを送り続け、私たちにできる協力をしたいと思います。そして日本を訪れた時に、今踏ん張っている皆さまにお会いし、時間を分かち合えればと思います。どうぞまだやるべきことはたくさんあるかと思いますが、共に力を合わせていきましょう。